江戸時代、海苔の生産を許されていたのは江戸と広島の二箇所だけ。牡蠣と同様に海苔は広島の特産として知られていました。
江戸時代中頃に海苔養殖が始まり、江戸後期には紙漉きのように海苔を薄く精製する「漉き海苔」が、西国で初めて広島でつくられるようになり、広島の海苔は大きな発展を見せました。
明治時代には、庚午や宇品の開拓により、干潟から川筋での海苔養殖に移行。
海田市村(現在の広島県安芸郡海田町)の瀬野川でも海苔養殖が盛んに行われました。
明治18年創業
國光百次郎がマルヒャクの商標で海苔問屋として創業。広島産の海苔を先駆けて大阪天満市場に持ち込み、広島の海苔商の礎を築きました。
大正5~6年頃、國光誠一が、朝鮮で改良式の海苔の生産が開始されると、買付に参加。
昭和2年入札制度制定により、朝鮮総督府認可商人として、朝鮮海苔の移入販売を展開。
以来、昭和17年統制経済による営業中止まで、國光商店として、各国産乾海苔問屋および味付海苔製造販売に従事。
昭和初期の海田市駅前。
写真右/マルヒャクの荷を積んだ運搬車。
〜「海田町史」広島県安芸郡海田町発行 より〜
入札権を持つマルヒャクが海苔を買い付け、海苔商たちに売ることで、広島の海苔商を増やしていき、海苔業界の発展と拡大に尽力した時期。
マルヒャクの瓶入り海苔が、海軍の指定商品に認定。
戦時中、海軍御用商人として営んだ「呉乾物株式会社」の車体に“マルヒャク”の宣伝が入った三輪トラック。
國光誠一が海苔配給統制組合理事長として、広島県一円で業務にあたる。
前身である広島県海苔荷受販売加工(株)を設立。
二代目 國光誠一が社長に就任。
商号を広島海苔(株)に変更。
本社を広島県安芸郡海田町稲荷町に、営業所を広島市南区的場町に置いた。
昭和25年に建てられた広島市南区的場町営業所ビル。
海田市町・東海田町の両町が合併し、海田町に。
二代目 國光誠一が初代 海田町長となる。
三代目 國光栄一が社長に就任。
加工海苔の製造販売に力を入れた。
製造部門を分離し、(株)丸百本舗を設立。
工場を広島県安芸郡海田町曽田に置いた。
営業所を広島市西区商工センターに移転。
國光治年が社長に就任。
(株)丸百本舗の製造部門を吸収し、味付海苔の製造販売を開始。
「かき醤油 味付のり」の誕生
國光芳弘が社長に就任。
國光邦子が会長に就任。